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一度でいいから見て見たい 政府が補償をするところ

わたし、音楽や映画、芸術、ライブ、ないと生きていけません。 だけどどんなに好きな劇場でも、ライブでも、生では見に行けてない。去年からずっと行ってへん。映画館ですら行けてません。 怖くて行けへんのです。だから今映画館や劇場がなくなっても文句言う権利ないかも知れへん。 政府が協力金を出さない・少ないせいで、ウチは開けます、開けざるを得ません、ていうお店や劇場出てきてるのはしょうがない。でもどんなに好きでも私は怖くて行けません。家族同居やし感染源になるわけにいかない。申し訳なく思ってます。 でも絶対潰れて欲しくないし生き残ってもらわな困るんです。 これはわがままでしょうか。私は当然の要求やと思ってます。 国に対してです。 芸術や文化を守るために、感染に気をつけて営業をしてもらってファンも利用しに行く、これはここまでの感染爆発、変異株到着の今は違うと思うんです。だってもし感染したら?働いている人もほんとうはとても怖い思いをしているのでは?絶対感染しないなど、誰も言えないはずです。 本気でゼロコロナにする必要があるんです。 ウィズコロナは最大級に間違ってる。がんを予防せずちょっとだけかかっときましょうてどこの医者が言うでしょうか。 科学的根拠と計画性、戦略を持って、最低限のハードロックダウンをやることが必要やと思っています。 しかしアホな政府は、一年間ずっとろくな補償をせず人々に自粛ばかり強要しました。少しでも感染が爆発したらすぐにみなの気の緩みやモラルのせいにしました。 違います。補償がないと働かざるを得ないのです。 政府が言うように憲法を変えて緊急事態条項をいれて規制を今以上に厳しく罰則付きの私権制限をする、と言うやりかたでは絶対にダメなんです。 北風と太陽です。日本政府のやり方は北風です。 補償をちゃんと出す、政治的でなく誰もが必要性を納得できる科学的根拠を示して私権制限をするべきです。これが合憲にする方法だし、今の憲法で可能なんです。 そして、そうすることで今あるお店や劇場やライブハウスを守ってほしいんです。ファンが無理して感染のリスクを冒しながら利用しなくても、劇場が従業員の感染リスクを抱えながら頑張らなくてもいいように。休業補償を十分に税金から捻出してほしい。欲しかった。去年やるべきやったんです。 どんなに好きなお店でも劇場でも、ほんまは「ウチは開けます」を讃える

#新聞記者みた

面白かった。まず怖い。 ホラーなら、客電ついて怖かった〜って苦笑いして現実に戻れるが、この映画が怖いのはその悪夢が現実と地続きだから。 でもこれは見終わってすぐの感想。10日以上経って、なんども映画のことを思い返しているうちに、だんだん変化してきた。この映画、本当に怖いのかな。これは滑稽といったほうがいいのかもしれない、と。 映画を見た帰り、駅の本屋に寄ったら「新聞記者」角川新書はなく、「内閣府調査室」という新書があった。目次を見ると、CIAだのアジアの危機だの豪華な話が並んでいる。 でも映画の中の内調ってず〜っとTwitterばっかしやってへんかったっけ? いやもちろん映画ではそういう面を特に見せてなかっただけなんかも知らんけど。 「国の安定を守る」と言いながら、霞が関のお歴々が守ってるのは確実に自分の身。やってることは現政権に批判的な人物の揚げ足とり、スキャンダル作りばっかり。それもTwitter(無料)に依存して。超絶せこい。そんなの「国民」のためではない。大げさな調査室で税金で大量に人を雇ってやることか。現実もこれに近いとすれば、映画での内閣調査室は美化されていると言えるのかもしれない。 だからこの話はブラックコメディーみたいな映画にもなりうる。 どんなに田中哲司が静かに睨み効かせてても、ゆーてること「ネトサポに伝えろ!」ですもん。内閣Twitterer室みたいな話。 (この辺は、映画「主戦場」のラスボスの、「正体見たり…」などんでん返しともいえる意外性と通じるものがあって面白い) ところで、松坂桃李もシム・ウンギョンもほんと素晴らしかったのだが、主人公の女性記者を「韓国人と日本人の両親を持つアメリカ育ち」に設定した理由はなんだろうと最初は不思議だった。パンフを読んでももうひとつ理由がわからず。 見終わっていろんな感想を読んでいると、批判的な意見では、記者クラブが描けていないなど、現実的な描写が弱いとか違う、というのが多かった。 その感想を読んでいて、なぜ主役が外国人女性だったのかわかったような気がした。日本の女優が演じていたら著書の望月さんを思い浮かべてしまうし、現実そのまんますぎる。フィクションとしての面白さが半減してしまったら、映画としての魅力や強みがなくなってしまう。 以前園子温監督が「希望の国」を撮った時インタビ

「主戦場」のフェアネス

とりあえずまず言いたいのは、この映画がなかったら、今まであまりに醜悪で我慢ならんという理由で対峙することから逃げてきた「“いわゆる”歴史修正主義者」の言説を、ここまで丹念に聞くことは一生なかったろうということ。  #主戦場 冒頭からたっぷりと映し出される「“いわゆる”歴史修正主義者」の自説には、映画館の暗闇で何度声を出して罵りそうになったかわからない。この映画の登場人物たちが今、名誉毀損の抗議と上映差し止め請求をしているが、これはこれで映画の続きのような滑稽さだ。 「“いわゆる”歴史修正主義者」と書いたのは、この映画の中で、歴史修正主義者という言葉に監督がナレーションで丁寧に「いわゆる」をつけていたからだ。冗談みたいだけどこれは十分意味がある語り口だとわたしは思った。なぜならこの表現はこの映画のフェアネスの一部だとわかるからだ。 映画「主戦場」は、一方的に彼らを歴史修正主義者だと断罪することを目的としてはいなかった。ツイッターでは彼らを歴史修正主義者だと表現して終わり、が日常的かもしれない。でもこの映画は彼らの意見を演出せず表情とともにたっぷりと映した後、その反証材料を端的に示していただけ。その二つを見て鑑賞者は彼らがどういう人間か判断するだろう。私は彼らが歴史修正主義者そのものだなと確信したが、それはあの映画が煽ったからではない。反証をしていて、それに納得したからだ。両論併記という及び腰ではなく、指摘すべきを指摘していると思ったからだ。映画は判断を、見てる人らに冷静に委ねていた。レッテルを貼る場があるとしたら、その場でレッテルを貼るのは、貼らざるを得なくなるのは見ている私たちだし、あの映画は精一杯公平にその場を提供していたと思う。 公平だと思う理由をさらに言い換えるとすると、彼らは本当にたっぷりと自説の「正しい歴史」を嬉々として語っていて、映画はそれを音楽やカット割りで演出せずありのままにみせていた(ゴーセンみたいに著者の意に反する人間をより醜く書いたり孤立した描写にしたりするような演出はない)ので、鑑賞者は私のような判断とは逆の、好意的な受け止めをする可能性すら開かれているという点だ。彼らのシンパがあの映画を、自分たちの意見を広めてくれて感謝したいと評価する可能性すらあると思うのだ。 パンフレットには「『慰安婦問題』

俳優の死

(しれっと久しぶりに書く) 割と好きだった俳優が若くしてなくなった(享年40)。 そのなくなりかたは非常に腹立たしくとても冥福を祈るどころではなかった。 彼の演技はとてもストイックだった。風貌も派手ではなく、すっと風景に溶け込んでしまうようなところがある。ただただいつもその時にその作品のなかの人生として存在しているように見える俳優だった。 彼はよく、善悪の両方を併せ持つ、あるいはそのどちらの人間なのか見ている方もその役の登場人物もわかっていない、そんな微妙な人物を演じていた。彼自身がそういう役を選んでいたのか、周りが自然と彼にそういう役を求めたのかはわからない。 俳優として死んでしまった彼のことを思い出しているうちに悲しいことだがやはりもう一度作品を見たくなった。以前から見ようと思って機会を逃していた映画を一本。そしておそらく代表作でもなんでもないが、彼を気に入ったきっかけになったドラマの1話分。 その映画は初めて見たのだが、珍しく主役であった。日本の田舎が舞台で、警官という仕事につきながら相変わらず単純に正義や誠実さを持つ人間ではない役。物語が進むにつれ少しずつ警官の制服が似合わなくなっていく。 やがて愛のないセックスのシーンが始まった。そのシーンをぼんやり見ながら、彼を見ている自分の中の変化に気づかずにはおれなかった。彼の俳優としての死にまつわる話は書きたくはないのだが、性暴力に関係している。 作品と個人のプライベートは別だ、ということはできる。しかし果たしで別にできるものなのだろうか。 このシーンが終わる頃、わたしはついに本当に好きな俳優をなくしたのだと悟った。もう二度と彼を見ることはできない。今までのようには。 覆水盆に返らず、は心のありようにもあきらかに起こる。 彼の死を知った時以上に、このシーンを見たことが彼の死を決定づけた。 単純に悲しむこともできず、なにか乾いた気持ちのまま、好きだったドラマの1話を見始める。 彼は警察の生活安全課で真面目に働いている。 スーツ姿でリュックを背負い、ペンとノートを持ち、所轄の街を歩く。 切れた街灯をチェックし、ピンクチラシを剥がし集め、壁の落書きを家主に注意する。 商店街からも重宝されるいい警官なのだがやはりどこかしっくりこない。一人暮らしの部屋の壁に大きく張り出されたcr

ヨコハマトリエンナーレ2014: 「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」

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エドワード&ナンシー・キーンホルツ ビッグ・ダブル・クロス 1987-1989 行ってきた。時間がなく、横浜美術館しか観られなかったが。 全会場用チケを買ったので11月までもう一回行くつもりだ。 ドクメンタ、ヴェネチアはたった一回遥か昔に見にいったことがあるが、自国での大きめの国際展は初めてかも知れない。 やはり日本語で考え抜かれたものは身にしみいりやすいのか、ディレクターの存在を、この美術展全体に貫かれているコンセプトを、多種多様な個々の作品作家を見ている間ずっと意識してしまうという体験をした。本当は当然のことなのかもしれないが、予想外に面白いことだった。誰の作品を見ていてもディレクターの存在を感じ続けてしまったせいか、まるで森村泰昌展を観ているかのような錯覚すらおぼえた。 レイ・ブラッドベリの有名なSF小説から題をとったこの展覧会(横浜美術館、新港ピア)は、その小説のように序章と全11話からなっている。この有名な小説を、恥ずかしながら読んでいない。しかしあらすじを調べてみると、なんと今のこの日本という国にふさわしい題材だろう。 焚書。密告。監視。思考停止。そして忘却。 会場は、1話ごとに空間が仕切られ、入り口に言葉が掲示されている。 これがまず、とても自分に響いてきた。 (オフィシャルサイトのこちらで読めます。まとめたガイドブックもあります) http://www.yokohamatriennale.jp/2014/director/structure.html#index03 そして会場の作品は綴っている。 何を忘却してきたのか。 忘却されたものの行方。 今も透明とされつづけているもの、声、人。 忘却する主体の展示。忘却されたものの展示。 忘却そのものを見つめ拾い集めてきた芸術の存在。 様々な「忘却」への眼差しや考察を観ているうちに、どんどん、わたしは今の日本の現実に強く向き合わされていくように感じた。 (わたし自身が311以降変わったのだろう。作品に対峙した時、忘れたり逃避していたことが映写機のようにその作品に映し出されるのだ) 第3話の部屋は、なかでも最も直接的に戦争に言及した作品の展示があるために、そして今の日本が日本なだけに、強く印象に残った。日本

映画見た:想田和弘監督「選挙」

想田和弘監督「選挙」観に行ってきた。なるほど、選挙って立候補って選対ってこういう風に動いてるのか…とかいろいろ腑に落ちました。「選挙2」が早く観たい。参院選前に公開してもらえてすごくありがたい。選挙なんかシラネという人達がうっかり観にいくといいとおもう。 「 選挙 」  イメージフォーラム(渋谷) で7月5日まで特別上映  「 選挙2 」 映画は全編、「山内和彦でございます!よろしくお願いします!」の声で埋め尽くされ山あり谷ありのストーリーは無いに等しい。新聞記者に、政策について尋ねられると言葉に詰まるのだから本当に中身が無い。当選するため彼がしている事は政策を練ったり公約を人々に訴えるのではなく、名前を3秒に1回叫ぶ事。所属与党の先生に怒られないようにすること。妻が女性蔑視にあってもひたすらなだめる。頭をさげるさげる、ひたすらそれだけの映画です。だから実はとても退屈。でもこの退屈を知る事が出来てよかったと思ったし、いろんな人が知るべきだと思ったし、本当にいろいろ腑に落ちました。 つまりこの退屈そのもの、中身の無い、人脈をどうのこうのするだけの世界が、少なくともこのときの選挙のすべてだった、ということ。そりゃすべての選挙がそうではないと思いたいけど、自民党はこういう選挙の戦い方を何十年もしてきたんだろうなと想像している。この映画を見て、なぜ民主党や自民党が政権を取った後に、公約破りをして恥じないのか、よく解った気がする。 さて本当に「選挙2」が楽しみ。山内さん、まったく変わってしまった、とチラシに書いてある。結果がどうだったか敢えて調べずに見ようと思っています。

そのうち考えをまとめるメモ

映画と作者と客の距離。 小説と作家と読み手の距離。 芸術と作者と鑑賞者の距離。 作品と作り手と受け手の距離。 アウトプットされた現実の作品と、作者の内の作品と、受け手の得た作品の距離。