投稿

10月, 2006の投稿を表示しています

「普段どおり」は難しい

日本シリーズ、なんやかんやゆーて見てました。 昨日の落合監督マウンド行きまくりも異様でしたが 今日も今日とてしびれる展開でしたね。 日本ハムの同点打スクイズには度肝を抜かれました。 ヒルマン監督はなんかまじめで素朴な(失礼)感じがして素敵です。 きっちりぴったり着こなしているユニフォームとか。なめらかな鼻の下とか… シリーズ前、落合さんはいつもの飄々と人を食ったような顔で「日本シリーズだからって特別なことはしません。普段どおり、いつもどおり、ペナントと同じままやってきてますから」的なことをいってて、 これは手ごわいぞ、中日日本一チャウか…と思っていたのですが フタをあけてみたらばぜんぜん普段とおりじゃなかったみたい。 あんなに抜け目がなくて強かったのに…。 そんなに日本シリーズって特別に感じるものなのだろうか。落合さんほどの図太さをもってしても。 平常心とか普段通りの、ってほんまにむずかしいのだと痛感する。自分たちの野球をする、とか伸び伸びやる、とか常套句となっているこの手の言葉はたくさんあれど、それってなかなかできることではないのかな。 それともそもそも特別な試合で、いつもどおり、なんて無理に決まっている、ってところから試合に望んだほうがいいのかも。 とはいえ、日ハムは見事にいつもどおりやった。外野での新庄選手たちのパフォーマンス(グローブを頭に乗っけて3人集まって井戸端会議)も、第一戦ナゴヤドームで見たときは「負けてるねんからそんな無理やり楽しそうにせんでも」って思ったけど、 あの行動こそ、シーズン中から一貫した姿勢を貫き通すことこそ、落合さんが一番したかった「普段着の野球」につながったんだろうなー。 ほんまに日ハムおめでとう。4連敗やけど中日もえらいがんばった。去年の阪神ーロッテより見ごたえのある面白いシリーズでした。去年は最後のほうは泣きながらテレビ消したもんな。 ところで、マセイヤス(マシーヤス?)っていう黒人の選手。記者会見でいろんな選手にマイクが回り、テレビカメラがその人を追うたびに常に後ろにいる、っていうジョークには大笑いした。誰がアップになっても常に後ろに水泳帽かぶってサングラスしているギャングスターみたいな柄の悪い黒人が無表情な同じ顔で映ってんねんもん。あほやなー。

舟越保武 石と随想

あかんかったね、タイガース。 まあしょうがないか。って1週間たって思えるようになりました。 あーあ、なんかきぃぬけたなあ… 久しぶりに神田の古書街でぶらついた。 DTPでなく、版下全盛期時代の産物である、いろんな罫線や気持ち悪い天使の図案集なんかを買った。 一生使われることはないやろうと油断しているかのような、さまざまに無駄な図案を眺めていると妙な創作意欲がわく。 わくだけでなんにもならへん。 じつはそんなもんよりすごくいい本を買った。 「舟越保武 石と随想 旧龍堂」。出た当初買おうと思っていたのに、すっかり忘れていた本だったのでばったり見つけられたのが嬉しい。 (ここから長い、本の感想) 学生時代、よく行く美術館で、かならずじっくり見に行く常設の彫刻があった。それが舟越保武さんの「病醜のダミアン(ダミアン神父)」だった。ダミアン神父は実在の人物で、ハワイの孤島で隔離された多くのハンセン氏病患者のためにそこに住み、世話をし、自らも同じ病で亡くなってしまった人である。病のため顔が崩れた神父さんがたたずんでいるその彫刻は、とにかくじっと見つめずにはおられない彫像だった。見ていると、その像から発せられているかのように感じる、波紋のように伝わってくる静けさ。美しさ。どうしてそんなに心惹かれるのか自分でもよくわからなかったが、とにかく好きだった。 家に帰って我慢できずに「病醜のダミアン」についての舟越さんの手記だけ先に読む。 「まともな自然な顔形をわざと歪めて作る作家は、もし病によって醜く崩れ変形された顔を描くときはどうするのだろうか(舟越保武著 「石と随想」より)」 この像を作る動機のひとつが、「偉人の功績に感動して」などというものではなく、この語りにあるような、舟越さんなりの「デフォルメシオン(デフォルメ、誇張表現)」にたいする「ささやかな抵抗感」だというのはすこし意外で驚いた。 芸術論でもなんでもない、と述べられているが、私には十分論理的で冷静な動機のように思える。 しかし最後のほうの、助手とともに像を作り上げるところを読んで、その凄みに震えが来た。”いかにして美しい顔の人物を病醜へと変貌させたか”が痛々しくもわかる。舟越さんは「自分が悪魔になったような気持ちであった」と書いている。 そうして生まれた醜く崩