身代わり
通販生活にこんな詩が載っている。 [原発を語るとき] 廃止論であろうと/再開論であろうと/原発を語るときは/心を福島に置いて語る習慣を/身につけよう 福島でつくられた原発電力は/東京で消費されたから/つまるところ/福島の子たちは/東京の子たちの身代わりになった/福島の親たちは/東京の親たちの身代わりになった/大阪で消費される原発電力はどの県でつくられているのだろう/ 〜中略〜 福島の子たちを棚に上げて/原発を語ることの/恥ずかしさよ (「通販生活」パッケージ表紙より引用) 通販生活は震災前も今も変わらず発言力を自覚して、ごまかさずに社会問題に対する意見を堂々と表現していて相変わらずすごいなあと思う。 上記の「詩(?)」は、感動したと言うコメントとともに2・3日前からtwitterに流れてきていてそれで知った。 私は全く逆の感想だった。あんまりにも心が鬱々としたので、自分なりに書いてまとめて多少なりとも気持ちを落ち着けようと思う。 これまで原発に無関心だった大人たちの、私たちの責任は重い。 しかし、「福島の子たちは東京の子たちの身代わり」という言葉は、 東京で子育てしている自分には到底受け入れられない。 福島の子が東京の子の身代わりという言葉は、 私の子が福島の子供を犠牲にして生きている、と言われるのと同じである。 福島の子ではなく、東京の子が被爆するのが当然だと言われるのと同じである。 少なくとも東京の親である私はそう受け取った。 どこに住んでいようと、どんな理由があろうと、被爆していい子供など一人もいない。 身代わりになっていい子供は一人もいないし、 誰かを身代わりにするという罪を子供にきせることは許されない。 福島の子供が被爆を余儀なくされていることを、 自己犠牲という「美談」に仕立てたくない。 今の福島の子供の状況は一刻も早く変えなければいけないことであって、 本来あってはならないことだ。 身代わりに「なった」などと過去形で、評価しまとめていいことではない。 そして「子供が子供の身代わり」という言葉は、 子供を必死で育てている親をひどく傷つけ打ちのめす言葉だ。 通販生活の詩は、原発について語り考える時は必ず福島のことを思え、という。