舟越保武 石と随想

あかんかったね、タイガース。
まあしょうがないか。って1週間たって思えるようになりました。

あーあ、なんかきぃぬけたなあ…

久しぶりに神田の古書街でぶらついた。
DTPでなく、版下全盛期時代の産物である、いろんな罫線や気持ち悪い天使の図案集なんかを買った。
一生使われることはないやろうと油断しているかのような、さまざまに無駄な図案を眺めていると妙な創作意欲がわく。
わくだけでなんにもならへん。

じつはそんなもんよりすごくいい本を買った。
「舟越保武 石と随想 旧龍堂」。出た当初買おうと思っていたのに、すっかり忘れていた本だったのでばったり見つけられたのが嬉しい。

(ここから長い、本の感想)

学生時代、よく行く美術館で、かならずじっくり見に行く常設の彫刻があった。それが舟越保武さんの「病醜のダミアン(ダミアン神父)」だった。ダミアン神父は実在の人物で、ハワイの孤島で隔離された多くのハンセン氏病患者のためにそこに住み、世話をし、自らも同じ病で亡くなってしまった人である。病のため顔が崩れた神父さんがたたずんでいるその彫刻は、とにかくじっと見つめずにはおられない彫像だった。見ていると、その像から発せられているかのように感じる、波紋のように伝わってくる静けさ。美しさ。どうしてそんなに心惹かれるのか自分でもよくわからなかったが、とにかく好きだった。

家に帰って我慢できずに「病醜のダミアン」についての舟越さんの手記だけ先に読む。

「まともな自然な顔形をわざと歪めて作る作家は、もし病によって醜く崩れ変形された顔を描くときはどうするのだろうか(舟越保武著 「石と随想」より)」

この像を作る動機のひとつが、「偉人の功績に感動して」などというものではなく、この語りにあるような、舟越さんなりの「デフォルメシオン(デフォルメ、誇張表現)」にたいする「ささやかな抵抗感」だというのはすこし意外で驚いた。
芸術論でもなんでもない、と述べられているが、私には十分論理的で冷静な動機のように思える。
しかし最後のほうの、助手とともに像を作り上げるところを読んで、その凄みに震えが来た。”いかにして美しい顔の人物を病醜へと変貌させたか”が痛々しくもわかる。舟越さんは「自分が悪魔になったような気持ちであった」と書いている。
そうして生まれた醜く崩れた顔を持つ神父の像が、とてつもなく美しいのだ。

晩年は氏も脳梗塞で倒れられ、もどかしい思いで制作に打ち込まれていたようである。そのときの作品や手記も収められている。それまでの凛とした写実性とは違い、どこにも定まらない線。でも迷いが感じられない。ミケランジェロの、晩年の彫刻を思い出す(盲目のうちに作り出した彫刻)。私はこの頃の舟越さんの作品をほとんど観たことがないせいか、そわそわとしてしまい、まだ最後まで読めていない。

このブログの人気の投稿

ヒマ

フィギュアスケート

昨日は、耐震偽造の参考人招致