「希望の国」

(twitterで連投したのをまとめ、修正)

「希望の国」監督・園子温観てきた。年に1回観る事を自分に課したい。特に霞ヶ関や電事連におつとめの人達は毎月一回観て欲しい。

…といっても、原子力村の闇を暴くとか国の事故対応の瑕疵を糾弾する、という映画ではないんですよね。

「僕が記録したかったのは被災地の"情緒"や"情感"」
    ~「希望の国」パンフレット、園子温監督インタヴューより

観ている間中、これは一体映画なんだろうか、現実なんだろうかとずっと動揺していた。いや、フィクションである事は頭では分かっている。キャスティングも素晴らしく、地元の人としか思えない風情ながら顔を知っている名優がたくさん出ている。しかし、それでもこれは映画なのか、と動揺してしまうような力があるのだ。フィクションなのに限りなく現実。登場人物の台詞にどきっとするたびに、同時に無数の現実の被災者の姿がはっきりと見える。家族が分断され人が傷つけ合いテレビが嘘をつくそのフィクション一つ一つに、これは本当に起こった事なんだと思い知らされる。

「なるべく想像力で書くことはやめて、取材した通りに(シーンや台詞を)入れようと思った」
   ~園子温監督

映画を見終わって外に一歩踏み出したら、そこに見えるにぎやかな風景の方が現実感が無いような気さえした。
今の私は、劇中のテレビで放射能なんて気にせずド〜ンと…と言っていた主婦と変わらない、五十歩百歩だ。全ての登場人物の要素が、少しずつ自分にある。大丈夫と必死で言い聞かせるあの息子の、避難しない老人にぶち切れる若者の、いつしかマスクも手袋もしなくなって怖がる人をせせら笑う労働者の。そしてなにより、子供の被爆を死ぬほど心配して常に罪悪感を持っている母親の。

「『希望の国』は我々全員が当事者で我々全員が主人公の物語」
    ~「希望の国」パンフレット、俳優 斉藤工のコメントより

従来の映画という枠で、客観的に鑑賞する以上の体験があった。美しい映画だ、素晴らしい作品だ、と感動して拍手して、さ、仕事仕事…というふうになかなかなれない。

最初に慟哭したのは夫婦の妊娠が確実と分かり2人が大喜びする所。とても幸せな場面である筈なのに2人が喜べば喜ぶほど涙が止まらなかった。過酷な現実を思うと。こんな夫婦が福島や東北や日本中にたくさんいるのだと思うと。この思いが何十年先にも続くと思うと。

ドキュメンタリーを撮った方が早いほど、園監督は被災地で取材されたそうだ。それでもフィクションを作ったのは、その方が描ける事があるから、とテレビで言ってた。その言葉の意味がとてもよく解った気がする。

水道橋博士が、「試写会で感想述べるのを尻込みした批評家」が居たとコメントしていたが、自分が批評家ならいつもの調子で「映画としてどうか」などと批評できないかもしれない。批評家も日本人なら、当事者なのだから。

子供が小さい事もあって、被災地を訪れる事はしばらくできない。福島に行く事も無いだろうと思う。でも「当事者」としてあり続けるよう意識しなければいけないんだ。この映画は映画でありながら、それを助けてくれた。作っている人や俳優さんたちは同意してくれないかもしれないが、良い映画だった、面白かった、ではすまされないし、すませたくない映画だ(もちろん、すごく面白い映画ではあるのだが)。どうしても、原発事故という過酷な現実から目を背けたくて、いつの間にか逃げている自分を引き戻してくれる。

これは不思議な事だ。今まで映画は現実逃避の為のものであることがほとんどだったのに。
映画「希望の国」は、現実逃避から引き戻される映画なんだ。現実よりも現実的なフィクションの力で。

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