ヨコハマトリエンナーレ2014: 「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」


エドワード&ナンシー・キーンホルツ
ビッグ・ダブル・クロス
1987-1989

行ってきた。時間がなく、横浜美術館しか観られなかったが。
全会場用チケを買ったので11月までもう一回行くつもりだ。

ドクメンタ、ヴェネチアはたった一回遥か昔に見にいったことがあるが、自国での大きめの国際展は初めてかも知れない。
やはり日本語で考え抜かれたものは身にしみいりやすいのか、ディレクターの存在を、この美術展全体に貫かれているコンセプトを、多種多様な個々の作品作家を見ている間ずっと意識してしまうという体験をした。本当は当然のことなのかもしれないが、予想外に面白いことだった。誰の作品を見ていてもディレクターの存在を感じ続けてしまったせいか、まるで森村泰昌展を観ているかのような錯覚すらおぼえた。

レイ・ブラッドベリの有名なSF小説から題をとったこの展覧会(横浜美術館、新港ピア)は、その小説のように序章と全11話からなっている。この有名な小説を、恥ずかしながら読んでいない。しかしあらすじを調べてみると、なんと今のこの日本という国にふさわしい題材だろう。
焚書。密告。監視。思考停止。そして忘却。

会場は、1話ごとに空間が仕切られ、入り口に言葉が掲示されている。
これがまず、とても自分に響いてきた。

(オフィシャルサイトのこちらで読めます。まとめたガイドブックもあります)

http://www.yokohamatriennale.jp/2014/director/structure.html#index03

そして会場の作品は綴っている。
何を忘却してきたのか。
忘却されたものの行方。
今も透明とされつづけているもの、声、人。
忘却する主体の展示。忘却されたものの展示。
忘却そのものを見つめ拾い集めてきた芸術の存在。

様々な「忘却」への眼差しや考察を観ているうちに、どんどん、わたしは今の日本の現実に強く向き合わされていくように感じた。

(わたし自身が311以降変わったのだろう。作品に対峙した時、忘れたり逃避していたことが映写機のようにその作品に映し出されるのだ)

第3話の部屋は、なかでも最も直接的に戦争に言及した作品の展示があるために、そして今の日本が日本なだけに、強く印象に残った。日本近代美術の画家・松本竣介の、その作品ではなく第二次世界大戦前後の妻子への書簡。隣には大谷芳久コレクション、戦時中の小説家や詩人が刊行した書籍の展示。振り返れば大きな十字架と弾丸が一体となった彫刻がきらきらと光っていた(エドワード&ナンシー・キーンホルツ「ビッグ・ダブル・クロス」)。

資料として、戦時中のノンフィクションを見るのと、個人的には嫌な言い方だか、芸術のコンテクストのなかで、彫刻作品や絵画作品と並んでこれらを観るのとでは大きな違いがある。
後者のような経験は私は初めてかも知れない。
ひょっとしたら批判するむきもあるかもしれないが、足を運んであの空間でこれらを観たらそのリアリティのたち現れ方にはっとするのではないだろうか。資料として読むのとは違うリアリティだ。

「ビッグ・ダブル・クロス」の前には、階段のある少し高い場所の本立てに大きな本が立てかけられていて、自由に観ることが出来る。「Moe Nai Ko To Ba 」という「世界でたった一冊の本」の展示だ。その風景は、まるで教会の説教壇に置かれた大きな聖書のよう。

私がこの部屋で、奈良原一高の写真「壁の中」(和歌山の女子刑務所の風景)を観ている時に突然、たぶんドイツ語で語る女性の声が聞こえてきた。戻ってみると、十字架の中の弾丸に向かいあうその場所で、一人の女性が「世界でたった一冊の本」を朗読している。たまたま朗読パフォーマンスの時に居合わせたのだった。言っていることは全く理解出来なかったが、その声が奈良原の写真を見ている時に響いてきたという瞬間、その場にもたらした印象、確かに空気が変わった一瞬が忘れ難い体験となった。写真を撮ろうとカメラをなんども向けたがなんどもためらい、結局撮れなかった。

この会場で一番長居したのは間違いなく「釜ヶ崎芸術大学」だろう。私はこの大学の存在を知らなかったが、学びや表現への切実な貪欲さに我が身を振り返ってしまった。講義ノートをみたがとても充実していてうらやましくなる内容だ。孤独や暮らしの厳しさ。生きていくことを噛み締め問いかけざるを得ない。そうしたときにそれを表現に向けることで風がふき、なにかが突き抜ける。表されたものは必ずしも独自性があるとは言えないかもしれないが、この大学の存在自体が大きな生き物のように思えてくる。

第5話の「非人称の漂流〜Still Moving」も、コンセプトが面白いと思った。非人称性という言葉は初めて認識した。20年前にアーカイブされた作品が、新たな解釈で再構築され展開されていく。そのことで作家(林剛、中塚裕子)のものであったはずのその作品が「誰のものでもなく」新たに生まれ変わる。作品のクレジットには作家名がなく、まさに非人称であるが、見る私はどうしても無意識に人称性を探してしまっている。もともとの作品が生み出された時、「非人称性」が重要な特性として備わっていたと言う。この無意識な、またはテーマに合わせていうと「忘却されたはず」の人称性の現前=見る者による幻?、についてはわたし自信の宿題である。

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