俳優の死

(しれっと久しぶりに書く)

割と好きだった俳優が若くしてなくなった(享年40)。
そのなくなりかたは非常に腹立たしくとても冥福を祈るどころではなかった。

彼の演技はとてもストイックだった。風貌も派手ではなく、すっと風景に溶け込んでしまうようなところがある。ただただいつもその時にその作品のなかの人生として存在しているように見える俳優だった。

彼はよく、善悪の両方を併せ持つ、あるいはそのどちらの人間なのか見ている方もその役の登場人物もわかっていない、そんな微妙な人物を演じていた。彼自身がそういう役を選んでいたのか、周りが自然と彼にそういう役を求めたのかはわからない。

俳優として死んでしまった彼のことを思い出しているうちに悲しいことだがやはりもう一度作品を見たくなった。以前から見ようと思って機会を逃していた映画を一本。そしておそらく代表作でもなんでもないが、彼を気に入ったきっかけになったドラマの1話分。

その映画は初めて見たのだが、珍しく主役であった。日本の田舎が舞台で、警官という仕事につきながら相変わらず単純に正義や誠実さを持つ人間ではない役。物語が進むにつれ少しずつ警官の制服が似合わなくなっていく。
やがて愛のないセックスのシーンが始まった。そのシーンをぼんやり見ながら、彼を見ている自分の中の変化に気づかずにはおれなかった。彼の俳優としての死にまつわる話は書きたくはないのだが、性暴力に関係している。
作品と個人のプライベートは別だ、ということはできる。しかし果たしで別にできるものなのだろうか。
このシーンが終わる頃、わたしはついに本当に好きな俳優をなくしたのだと悟った。もう二度と彼を見ることはできない。今までのようには。

覆水盆に返らず、は心のありようにもあきらかに起こる。
彼の死を知った時以上に、このシーンを見たことが彼の死を決定づけた。

単純に悲しむこともできず、なにか乾いた気持ちのまま、好きだったドラマの1話を見始める。
彼は警察の生活安全課で真面目に働いている。
スーツ姿でリュックを背負い、ペンとノートを持ち、所轄の街を歩く。
切れた街灯をチェックし、ピンクチラシを剥がし集め、壁の落書きを家主に注意する。
商店街からも重宝されるいい警官なのだがやはりどこかしっくりこない。一人暮らしの部屋の壁に大きく張り出されたcrazy wall。街の防犯への仕事ぶりは執着が強過ぎるのだ。

物語は主役の謎の女性との会話で終わる。この女性は確実に犯罪をコントロールし、周りの人間を悲劇に陥れることができる。その正体に、生活安全課のこの青年が殺人課の刑事を差し置き最後にたどり着く。
雨の中、恐ろしく愛らしい少女のようなサイコパスと彼が対峙する。
彼は完全に彼女のしたことを指摘する。しかし正義感を破裂させ非難するのではなく、まるで生活安全課の警官として編み出した防犯地図を披露するかのように。
彼女は真実を指摘されても臆することなく背を向けて立ち去る。
最後に雨の中彼は一人残され佇む。声を上げるでもなく、顔を歪めるのでもなく、彼女が言い放った冷酷な言葉をゆっくり噛み締めて、少し微笑んでいるかのようにも見える。

矛盾した人間、自分の内面と周りの出来事を簡単に割り切らない人物、そんな人物をごく少ない動作と小さな声と表情で演じる。こう言う役が彼には本当に似合っている。
それはあまりにも彼らしく、彼自身なのかと錯覚する。

彼がひどい死に方をするまではこれでよかった。
今、私はこのリアリティラインを、もっと彼自身の人生へと侵食させようとしてしまう。彼が実際はどういう人間だったのだろうかと考えることがやめられなくなる。
彼は今まで演技をしていなかったのだろうか。ただそのまま自分を表現していたのだろうか。清濁併せ持つ絶妙な人間を演じていたが、実際はとても受け入れられない人物だったのだろうか、などと。
しかし、作中世界を離れて、演技をしていない時の実像についてばかり考えさせてしまうような俳優は、まさに死んだも同然ではないだろうか。


混乱しながらも私は彼にしばしの別れを告げるしかない。いつか俳優としてまた、その世界の中で存在しているリアルな人間として、その映画やドラマを見れる時がくるだろうか。

君は僕を忘れるから そうすれば もうすぐに君に会いに行ける という奥田民生の声が聞こえてきた。

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