「主戦場」のフェアネス

とりあえずまず言いたいのは、この映画がなかったら、今まであまりに醜悪で我慢ならんという理由で対峙することから逃げてきた「“いわゆる”歴史修正主義者」の言説を、ここまで丹念に聞くことは一生なかったろうということ。 
#主戦場

冒頭からたっぷりと映し出される「“いわゆる”歴史修正主義者」の自説には、映画館の暗闇で何度声を出して罵りそうになったかわからない。この映画の登場人物たちが今、名誉毀損の抗議と上映差し止め請求をしているが、これはこれで映画の続きのような滑稽さだ。

「“いわゆる”歴史修正主義者」と書いたのは、この映画の中で、歴史修正主義者という言葉に監督がナレーションで丁寧に「いわゆる」をつけていたからだ。冗談みたいだけどこれは十分意味がある語り口だとわたしは思った。なぜならこの表現はこの映画のフェアネスの一部だとわかるからだ。

映画「主戦場」は、一方的に彼らを歴史修正主義者だと断罪することを目的としてはいなかった。ツイッターでは彼らを歴史修正主義者だと表現して終わり、が日常的かもしれない。でもこの映画は彼らの意見を演出せず表情とともにたっぷりと映した後、その反証材料を端的に示していただけ。その二つを見て鑑賞者は彼らがどういう人間か判断するだろう。私は彼らが歴史修正主義者そのものだなと確信したが、それはあの映画が煽ったからではない。反証をしていて、それに納得したからだ。両論併記という及び腰ではなく、指摘すべきを指摘していると思ったからだ。映画は判断を、見てる人らに冷静に委ねていた。レッテルを貼る場があるとしたら、その場でレッテルを貼るのは、貼らざるを得なくなるのは見ている私たちだし、あの映画は精一杯公平にその場を提供していたと思う。

公平だと思う理由をさらに言い換えるとすると、彼らは本当にたっぷりと自説の「正しい歴史」を嬉々として語っていて、映画はそれを音楽やカット割りで演出せずありのままにみせていた(ゴーセンみたいに著者の意に反する人間をより醜く書いたり孤立した描写にしたりするような演出はない)ので、鑑賞者は私のような判断とは逆の、好意的な受け止めをする可能性すら開かれているという点だ。彼らのシンパがあの映画を、自分たちの意見を広めてくれて感謝したいと評価する可能性すらあると思うのだ。

パンフレットには「『慰安婦問題』をめぐる、いくつかの論点と登場人物たちの発言」というページがある。主な論点ととして発言とその反論が淡々と記録されているが、そこには「こんなことを言うなんて非常に問題だ」「この意見には賛成できる」といった監督自身による批評は一切書かれていない。その様子は映画の特徴と一致している。

だから

「映画で『歴史修正主義者』『性差別主義者』などのレッテルを貼られ、名誉を毀損(きそん)された」

と原告が訴えているのは本当に面白い。もしレッテルを貼ってるとしたらそれは他でもない原告自身ということになるからだ。あの映画の中で喋っている自分たちを観て、これは歴史修正主義者だ、性差別的だと彼らが思ったという自白でしかない。

(「性差別主義者」というレッテルについては、映画の中でとてもここにはかけないようなひどい屈辱的な偏見を「テキサス親父」やそのマネージャー氏が笑いながら語っていた。いったいぜんたいあれをみて、あの男たちを性差別主義者だと思わない人がいるだろうか?
言った本人さえ思ったんだから、あとから。映画を見て、提訴するほどに。訴えるなら自分を訴えるべきだな)


デザキ監督は公開後の早い段階で出演者たちの抗議に反応して記者会見をしていた。わたしはたまたま映画を朝に見て家に帰ってきたらその記者会見に出くわすという「幸運」に恵まれた。まるで映画を追体験するような、スピンオフを観れたような。監督は理路整然と、一般公開の可能性を契約時に示していたことを述べていた。本当に面白い映画なのでもっとたくさんの人が笑いなから戦慄したらいいと思う。


このブログの人気の投稿

ヒマ

フィギュアスケート

昨日は、耐震偽造の参考人招致