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映画2つ

去年のエントリ10以下ってもうどないやの …今年もよろしくお願いします。 ーーーーーーーーーーーー 最近観た映画。 「ヤング≒アダルト」 シャーリーズ・セロンは「モンスター」の怪女役よりこっちのほうがきつかったんちゃうかな。 映画史上、こんなに素晴らしくヌーブラが使われた事がいまだかつてあったであろうか。あまりにも効果的に、あまりにも象徴的に。 間違いなく主演小道具賞。 こういうのにありがちな、最後は真実の愛に目覚める…なんてならないのが素晴らしい。 wowowで観たのだが、安西水丸氏が本気でこういう女性リアルで居たら嫌だ!て言ってたのが、なんかすんませんと思ってしまった。 「キッズ・オール・ライト」 よくある家族の問題。子供2人の夫婦、どちらかが浮気してバレて子供ともども傷つけて、許し合って、何とか再出発をして、子供は巣だって… ネットで感想を検索したら、不評も多い。曰く「つまらない、平凡なストーリ」「退屈」などなど。 確かにこの映画のストーリーはありふれている。ただひとつ違うのは、この夫婦が女性同士のカップルだって事だけ。 同性愛の女性同士の夫婦と、その女性それぞれが精子バンクで出産した子供2人。それでもこの家族に起こる問題はまったく「普通」の家族と同じ。 だからある意味、つまんない、という感想は一部的を射ているのかも。 でも、同性愛カップルの夫婦なのに、家族の問題がとてもオーソドックスってところが、この映画のすごくおもしろいところ。目から鱗が落ちるところ。 最近フランスで、「みんなのための結婚」という法律ができ、同性婚が認められたそうな。この映画を観ても思ったけど、男女のロマンの果てが結婚だ、子供を作る為の結婚だ、という考えが全てでなくなればいいな。誰しもが年老いて社会的に弱者になっていく時に孤独にならないよう、助け合える小さな社会=家庭があちこちにあれば良い。親が一人でも2人でも血がつながってなくても、子供を助け育てられる小さな社会があちこちにできやすくなればいい。家族を率いる2人の親は、同性どうしでも異性どうしでも固く結びついていればどちらでもいい。セクシャルな関係である必要すらない。 どんな夫婦でも、今までの結婚の概念で得られた社会的な権利や行政の補助が受けられますよ、というのがフランスの「みんなのための結婚」...

「希望の国」

(twitterで連投したのをまとめ、修正) 「希望の国」監督・園子温観てきた。年に1回観る事を自分に課したい。特に霞ヶ関や電事連におつとめの人達は毎月一回観て欲しい。 …といっても、原子力村の闇を暴くとか国の事故対応の瑕疵を糾弾する、という映画ではないんですよね。 「僕が記録したかったのは被災地の"情緒"や"情感"」     ~「希望の国」パンフレット、園子温監督インタヴューより 観ている間中、これは一体映画なんだろうか、現実なんだろうかとずっと動揺していた。いや、フィクションである事は頭では分かっている。キャスティングも素晴らしく、地元の人としか思えない風情ながら顔を知っている名優がたくさん出ている。しかし、それでもこれは映画なのか、と動揺してしまうような力があるのだ。フィクションなのに限りなく現実。登場人物の台詞にどきっとするたびに、同時に無数の現実の被災者の姿がはっきりと見える。家族が分断され人が傷つけ合いテレビが嘘をつくそのフィクション一つ一つに、これは本当に起こった事なんだと思い知らされる。 「なるべく想像力で書くことはやめて、取材した通りに(シーンや台詞を)入れようと思った」     ~園子温監督 映画を見終わって外に一歩踏み出したら、そこに見えるにぎやかな風景の方が現実感が無いような気さえした。 今の私は、劇中のテレビで放射能なんて気にせずド〜ンと…と言っていた主婦と変わらない、五十歩百歩だ。全ての登場人物の要素が、少しずつ自分にある。大丈夫と必死で言い聞かせるあの息子の、避難しない老人にぶち切れる若者の、いつしかマスクも手袋もしなくなって怖がる人をせせら笑う労働者の。そしてなにより、子供の被爆を死ぬほど心配して常に罪悪感を持っている母親の。 「『希望の国』は我々全員が当事者で我々全員が主人公の物語」     ~「希望の国」パンフレット、俳優 斉藤工のコメントより 従来の映画という枠で、客観的に鑑賞する以上の体験があった。美しい映画だ、素晴らしい作品だ、と感動して拍手して、さ、仕事仕事…というふうになかなかなれない。 最初に慟哭したのは夫婦の妊娠が確実と分かり2人が大喜びする所。とても幸せな場面である筈なのに2人が喜べば喜ぶほど涙が止まらなかった。過酷な現実を思うと。...

絵を読む、文を観る

ずっとデザイン=機能のあるものを作っていたので、まったく機能のないものを描く事がまたもや新鮮で、絵を描くモチベーションになってきている。 イラスト仕事をさせてもらっていて、それはある作詞家の方の作品であることばに絵を添えるという事をやっているのだけど、ある時ふと、目の前の白紙に何も考えずに線を描いた。 ずっと具体的な人やものなどを描いてきたので、何の意味も無い抽象的なものを描こうとすると案外すっと描けない。 実際は大学で抽象画を学んでいたので手練で描けない事はないのだけど、大学時代と違って描く前になにか抵抗というか、引っかかりがある。 それは個人的なとても小さな変化で、紙に筆やペンを置く直前にほんの一瞬感じる心のひっかかりといったようなもので、説明するのは難しい。 長年デザインの世界でほそぼそと絵作りをしてきて、それは常に意味があったり機能があった。 そんな私が今、ふと描く「何も語らない、何の比喩でもない何か」は、アカデミックな場所で現代美術にかぶれて尊大になっていた当時の私が描く「何も語らない何か」とは全く違っている。それはとてもぎこちなく、でもとても存在感がある。 なにかこう、不思議だ! ところでことばに絵を添えるというのは本当に面白い作業だ。 言葉で説明できないなにかがあるのが絵といえるが、言葉の中には言葉しかないのではなく、言葉以上のもの、絵的なもの、イメージが立ち現れる。 悪い意味で言葉で言い換えられてしまう絵もある。 絵と言葉は、お互いが補完し合うのでなく、どちらもイメージと言葉、両方を孕んでいて、その呼応が更にそこに無いイメージや言葉を生み出す(ような結果を作り出したいがとてもとても難しい…)。 河出文藝選書「闇の中の黒い馬」埴谷雄高著の、イメージと言葉のありかたが私には面白くて、ぼんやりしてしまうときに読むとぴりっとする。 著者の言葉と駒井哲郎の手による挿絵が醸し出す絶妙な距離感がいいし、埴谷さん自身が自分が見た夢といったような言葉にするのが難しいものを、ねじ伏せるようにしつこく描写してこれでもかと言葉を連ねるのがまた面白いのだ。 夢という映像や絵を言葉で執拗に表していく。そんな文章に添えられた絵はそこに描かれた言葉に別の風景を投げかける。  (全部読んでないのでこの辺にしとこう。)

もうとっくにあけとりまんがな!

3月になっても紅白の話題が載り続けている、さすがにまずいと思いエア更新です。 今年もよろしくお願いします! 原発の事も、音楽の事も、シリアスな事も、面白かった事も、 分け隔てなく素直に書こうと思う所存です。

よいお年を。脳内紅白歌合戦2011

紅組がなかなか見つからなかった。。。。 今年と言う年にこだわった曲と単に好きな懐メロが混ざってます。 音源は各自お探しください!(誰が探すねん) 白組 沢田研二/ストリッパー 郷ひろみ/ハリウッドスキャンダル 鈴木茂/微熱少年 布施明/あまく危険な香り(カバー) CRAZY KEN BAND/まっぴらロック 三波春夫/世界の国からこんにちは ザ50回転ズ/まったく話になりません 小坂忠/ほうろう 高野寛/雪解け オリジナルラブ/あたらしいふつう yanokami/Don't Speculate RCSuccession/Love me tender(カバー) 斉藤和義/幸福な朝食 退屈な夕食 エレカシ/昔の侍 細野晴臣/Radioactivity(カバー) 坂本龍一/in the red ゴダイゴ/Where'll We Go from Now ムーンライダーズ/さよならは夜明けの夢に 松崎しげる/愛のカタマリー 細川たかし/望郷じょんがら フライングダッチマン/humanERROR 三橋美智也/星屑の街 はっぴいえんど/さよならアメリカさよなら日本 北島三郎/祭り 坂本九/上を向いて歩こう 紅組 松田聖子/瞳はダイヤモンド 中森明菜/セカンドラブ 吉田美奈子/Uptown いしだあゆみ/バイバイジェット 大貫妙子/Wonderland Miho Hatori/A Song For Kids EPO/百年の孤独 荒井由美/生まれた街で Nina Simone/Ain't Got No - I Got Life 空気公団/風に乗った言葉 越路吹雪/ろくでなし ちあきなおみ/星影の小径 中島みゆき/世情 HIS/日本の人 和田アキ子/悲しい歌 八代亜紀/舟歌 矢野顕子/ごはんができたよ 都はるみ/北の宿 キャンディーズ/微笑みがえし

怒りとエネルギー

怒り。 一時期、感情的になる、ということは恥ずかしい、というのが自分のテーマになってしまい、もともと早口で攻撃的なしゃべり方だった20代、それを直そうと努力。だいぶゆっくりおっとり話せるようになった。そのぶん心も穏やかに落ち着きやすくなった。頭の回転はどんどん遅くなっていったみたいだけど。 そうして40も超えたけれど、時々どす黒い気持ちが爆発したり、自分でもびっくりするぐらい瞬間的に怒りが爆発して罵詈雑言をはいたりしてしまう。たとえば、国会中継とか見てる時に。 心が穏やかで落ち着きやすくなって、感情をコントロールできるようになった、と言うのは思い込みで、 怒りを押さえ込んでいるうちに、自然な怒り方を忘れてしまったみたい。 石原慎太郎が、瓦礫について文句を言う都民は「黙れ」と発言した。老都知事の発言には幾度となく腹を立ててきたが、今回だけは、今までと違う状態になった。すーっと冷めてしまったのだ。自分でもこの時の気持ちがうまく理解できなかった。 このことをツイートしたら友人が怒り続けるにはエネルギーがいると言うことですかね、と言ってくれた。なるほど、と思った。 私はいい加減あの老害に腹を立て疲れたのかもしれないと。 でももう一つ別の側面があるように思う。「黙れ」と言われた。公僕が都民に黙れ、と。絶対に言ってはいけない言葉だと私は思った。すーっとさめてしまったが、この冷たい感情は一種の覚醒した怒りだった。この時の怒りは、ただ荒々しく怒るのではなくて、そうですかそちらがそうなら、私も考えがあります(ほんとは何にもまとまってないけど)とでも言うように、肝が据わった感じだった。彼自身を本当に心の底から軽蔑し、見限った。期待も何も無い。だから怒りようが無い。 それからほどなくして 「僕らの漫画」 を読んだ。私はさそうあきらが大好きで、彼の作品目当てで真っ先に読んだ。何ともタイムリーなことに、テーマは「怒り」だった。「怒り」が文字通りエネルギーに変換される話。私は、自分の行き場も無く出方も分からなくなった「怒り」について考えた。 そして今日。 これ を聞いた。 私は最後泣いてしまった。正直号泣の部類。それはいろんなことが混じった涙。本当に大変なことになってしまったんだ、という強烈な悲しみと、原発事故を巻き起こしてもなお私利私欲に走る人達の存在への悔しく...

身代わり

通販生活にこんな詩が載っている。 [原発を語るとき] 廃止論であろうと/再開論であろうと/原発を語るときは/心を福島に置いて語る習慣を/身につけよう 福島でつくられた原発電力は/東京で消費されたから/つまるところ/福島の子たちは/東京の子たちの身代わりになった/福島の親たちは/東京の親たちの身代わりになった/大阪で消費される原発電力はどの県でつくられているのだろう/ 〜中略〜 福島の子たちを棚に上げて/原発を語ることの/恥ずかしさよ (「通販生活」パッケージ表紙より引用) 通販生活は震災前も今も変わらず発言力を自覚して、ごまかさずに社会問題に対する意見を堂々と表現していて相変わらずすごいなあと思う。 上記の「詩(?)」は、感動したと言うコメントとともに2・3日前からtwitterに流れてきていてそれで知った。 私は全く逆の感想だった。あんまりにも心が鬱々としたので、自分なりに書いてまとめて多少なりとも気持ちを落ち着けようと思う。 これまで原発に無関心だった大人たちの、私たちの責任は重い。 しかし、「福島の子たちは東京の子たちの身代わり」という言葉は、 東京で子育てしている自分には到底受け入れられない。 福島の子が東京の子の身代わりという言葉は、 私の子が福島の子供を犠牲にして生きている、と言われるのと同じである。 福島の子ではなく、東京の子が被爆するのが当然だと言われるのと同じである。 少なくとも東京の親である私はそう受け取った。 どこに住んでいようと、どんな理由があろうと、被爆していい子供など一人もいない。 身代わりになっていい子供は一人もいないし、 誰かを身代わりにするという罪を子供にきせることは許されない。 福島の子供が被爆を余儀なくされていることを、 自己犠牲という「美談」に仕立てたくない。 今の福島の子供の状況は一刻も早く変えなければいけないことであって、 本来あってはならないことだ。 身代わりに「なった」などと過去形で、評価しまとめていいことではない。 そして「子供が子供の身代わり」という言葉は、 子供を必死で育てている親をひどく傷つけ打ちのめす言葉だ。 通販生活の詩は、原発について語り考える時は必ず福島のことを思え、という。 ...