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そのうち考えをまとめるメモ

映画と作者と客の距離。 小説と作家と読み手の距離。 芸術と作者と鑑賞者の距離。 作品と作り手と受け手の距離。 アウトプットされた現実の作品と、作者の内の作品と、受け手の得た作品の距離。

本屋さんで本を買う、後日談。

…というわけで今天本書店(仮名)に行ってきました。 シャッター半分しまっていました。 いつも見える絵本の表紙群が無い、棚が空っぽ。 中をのぞくと天本さんが段ボールの散乱した店内奥のレジで一人、何やら片付けごとをしていました。 思わず声をかけてしまいました。 何でも、3月に入院する事態になってしまった。それで頼んだアルバイトにとんずらされた。3月一杯ならまだしも、途中で辞められてしまい店ができなくなった。 配達専門でやってきたので。もう出来ない。 と教えてくれました。 ああ、もっと足しげく通ってれば。近くはしょっちゅう通ってるのに。 バイトも出来たのに! 思わず叫んでしまいました。 今自分の偽善者ぶりに自己嫌悪です。なにが本屋で本を買う、じゃ。またお店なくなったわ。 しばらく天本さんに話を聞いたら、配達専門でやってきた、ということを強調していました。しかし最近では厳しい。取次店も、本の量が少ないと取り次いでくれなくなった、厳しくなったよ、本当に。大型書店があるからさ。小さい所には取り次いでくれないんだよ。 ああ〜。そうなのかあ。 もうお体はいいんですか? ああもう元気だよ。 ここにはしばらく居られるんですか? ずっと居るよお!ここ住んでんだから〜。 ふふ、すみません、そうですよね。それではまた、どうも突然失礼しました。 といってふらふら帰ってきました。 は〜〜〜〜〜本当に厳しいね。

本屋さんで本を買う

近所におじいさんが一人でやってる個人商店の本屋さんがあります。小さいお店で品数が限られてますが、絵本だけはこだわりがあるらしく狭いお店の2/3は絵本の平置で埋まってます。壁一面に、一冊ずつ丁寧に絵本が表紙をこちらに向けて鎮座しています。 ある日まだ乳飲み子の娘を連れてその店に入りました。 おもちゃの付録がついた幼児向け雑誌をレジに持って行きました。 おじいさんの風貌は、ちょっと天本英世さんに似ています。 店主の天本さんは雑誌をビニールの手提げに入れようとして舌打ちしました。マチが無い袋に入れるには、その雑誌はちょっと厚みがあったからです。 30秒位ガサガサと袋に入れようと格闘しました。やっと入ると袋はパンパンに湾曲していました。 「まったく、中身で勝負しないでふろくで勝負しようとするから」 天本さんは舌打ちまじりに一言吐き捨てました。 (そんな雑誌を買っていくアホ親でございます…) と申し訳なく思いながら、にやにやして袋を受け取るしかありませんでした。 でもそれで、私はすこしこの本屋を見直しました。 開店時間もよく解らないし、お店もぼろぼろだし、絵本しか無いし、大変なんだろうけどやる気も無いのかな、と思っていたのですが、絵本に関しては、確実に信念を持ってお店を開いていることが伝わってきたからです。 とはいえ、それからそこで買い物したのは2回位です。つい近所の大型ショッピングモール内の本屋で買ったりアマゾンで注文していました。 昨日の事ですが、その大型店で、久しぶりに子供に絵本を買いました。長谷川義史著の「ようちえんいやや」です。 子供はすごく気に入って、何度も朗読をせがまれました。4歳になる娘はここ1年位、なぜか本に関しては黙読したがり、読み聞かせようとすると拒否されていました。ところがこの本に関しては私の本場仕込みの大阪弁の発音と演技力がよかったのか、ものすごいせがみようで久しぶりに私は汗が出るほどなんども読み聞かせました。 ふと、この絵本をなぜ天本さんのところで買わなかったのだろう、と思いました。 いいタイミングで、Twitterである人がアマゾンを断つ、という宣言をされていました。 私も日頃から、大型店やネットを利用しながらも、それらの地元に根付いている個人商店食いに一抹の疑問を感じていました。 アマゾンは日本で合法的で...

映画2つ

去年のエントリ10以下ってもうどないやの …今年もよろしくお願いします。 ーーーーーーーーーーーー 最近観た映画。 「ヤング≒アダルト」 シャーリーズ・セロンは「モンスター」の怪女役よりこっちのほうがきつかったんちゃうかな。 映画史上、こんなに素晴らしくヌーブラが使われた事がいまだかつてあったであろうか。あまりにも効果的に、あまりにも象徴的に。 間違いなく主演小道具賞。 こういうのにありがちな、最後は真実の愛に目覚める…なんてならないのが素晴らしい。 wowowで観たのだが、安西水丸氏が本気でこういう女性リアルで居たら嫌だ!て言ってたのが、なんかすんませんと思ってしまった。 「キッズ・オール・ライト」 よくある家族の問題。子供2人の夫婦、どちらかが浮気してバレて子供ともども傷つけて、許し合って、何とか再出発をして、子供は巣だって… ネットで感想を検索したら、不評も多い。曰く「つまらない、平凡なストーリ」「退屈」などなど。 確かにこの映画のストーリーはありふれている。ただひとつ違うのは、この夫婦が女性同士のカップルだって事だけ。 同性愛の女性同士の夫婦と、その女性それぞれが精子バンクで出産した子供2人。それでもこの家族に起こる問題はまったく「普通」の家族と同じ。 だからある意味、つまんない、という感想は一部的を射ているのかも。 でも、同性愛カップルの夫婦なのに、家族の問題がとてもオーソドックスってところが、この映画のすごくおもしろいところ。目から鱗が落ちるところ。 最近フランスで、「みんなのための結婚」という法律ができ、同性婚が認められたそうな。この映画を観ても思ったけど、男女のロマンの果てが結婚だ、子供を作る為の結婚だ、という考えが全てでなくなればいいな。誰しもが年老いて社会的に弱者になっていく時に孤独にならないよう、助け合える小さな社会=家庭があちこちにあれば良い。親が一人でも2人でも血がつながってなくても、子供を助け育てられる小さな社会があちこちにできやすくなればいい。家族を率いる2人の親は、同性どうしでも異性どうしでも固く結びついていればどちらでもいい。セクシャルな関係である必要すらない。 どんな夫婦でも、今までの結婚の概念で得られた社会的な権利や行政の補助が受けられますよ、というのがフランスの「みんなのための結婚」...

「希望の国」

(twitterで連投したのをまとめ、修正) 「希望の国」監督・園子温観てきた。年に1回観る事を自分に課したい。特に霞ヶ関や電事連におつとめの人達は毎月一回観て欲しい。 …といっても、原子力村の闇を暴くとか国の事故対応の瑕疵を糾弾する、という映画ではないんですよね。 「僕が記録したかったのは被災地の"情緒"や"情感"」     ~「希望の国」パンフレット、園子温監督インタヴューより 観ている間中、これは一体映画なんだろうか、現実なんだろうかとずっと動揺していた。いや、フィクションである事は頭では分かっている。キャスティングも素晴らしく、地元の人としか思えない風情ながら顔を知っている名優がたくさん出ている。しかし、それでもこれは映画なのか、と動揺してしまうような力があるのだ。フィクションなのに限りなく現実。登場人物の台詞にどきっとするたびに、同時に無数の現実の被災者の姿がはっきりと見える。家族が分断され人が傷つけ合いテレビが嘘をつくそのフィクション一つ一つに、これは本当に起こった事なんだと思い知らされる。 「なるべく想像力で書くことはやめて、取材した通りに(シーンや台詞を)入れようと思った」     ~園子温監督 映画を見終わって外に一歩踏み出したら、そこに見えるにぎやかな風景の方が現実感が無いような気さえした。 今の私は、劇中のテレビで放射能なんて気にせずド〜ンと…と言っていた主婦と変わらない、五十歩百歩だ。全ての登場人物の要素が、少しずつ自分にある。大丈夫と必死で言い聞かせるあの息子の、避難しない老人にぶち切れる若者の、いつしかマスクも手袋もしなくなって怖がる人をせせら笑う労働者の。そしてなにより、子供の被爆を死ぬほど心配して常に罪悪感を持っている母親の。 「『希望の国』は我々全員が当事者で我々全員が主人公の物語」     ~「希望の国」パンフレット、俳優 斉藤工のコメントより 従来の映画という枠で、客観的に鑑賞する以上の体験があった。美しい映画だ、素晴らしい作品だ、と感動して拍手して、さ、仕事仕事…というふうになかなかなれない。 最初に慟哭したのは夫婦の妊娠が確実と分かり2人が大喜びする所。とても幸せな場面である筈なのに2人が喜べば喜ぶほど涙が止まらなかった。過酷な現実を思うと。...

絵を読む、文を観る

ずっとデザイン=機能のあるものを作っていたので、まったく機能のないものを描く事がまたもや新鮮で、絵を描くモチベーションになってきている。 イラスト仕事をさせてもらっていて、それはある作詞家の方の作品であることばに絵を添えるという事をやっているのだけど、ある時ふと、目の前の白紙に何も考えずに線を描いた。 ずっと具体的な人やものなどを描いてきたので、何の意味も無い抽象的なものを描こうとすると案外すっと描けない。 実際は大学で抽象画を学んでいたので手練で描けない事はないのだけど、大学時代と違って描く前になにか抵抗というか、引っかかりがある。 それは個人的なとても小さな変化で、紙に筆やペンを置く直前にほんの一瞬感じる心のひっかかりといったようなもので、説明するのは難しい。 長年デザインの世界でほそぼそと絵作りをしてきて、それは常に意味があったり機能があった。 そんな私が今、ふと描く「何も語らない、何の比喩でもない何か」は、アカデミックな場所で現代美術にかぶれて尊大になっていた当時の私が描く「何も語らない何か」とは全く違っている。それはとてもぎこちなく、でもとても存在感がある。 なにかこう、不思議だ! ところでことばに絵を添えるというのは本当に面白い作業だ。 言葉で説明できないなにかがあるのが絵といえるが、言葉の中には言葉しかないのではなく、言葉以上のもの、絵的なもの、イメージが立ち現れる。 悪い意味で言葉で言い換えられてしまう絵もある。 絵と言葉は、お互いが補完し合うのでなく、どちらもイメージと言葉、両方を孕んでいて、その呼応が更にそこに無いイメージや言葉を生み出す(ような結果を作り出したいがとてもとても難しい…)。 河出文藝選書「闇の中の黒い馬」埴谷雄高著の、イメージと言葉のありかたが私には面白くて、ぼんやりしてしまうときに読むとぴりっとする。 著者の言葉と駒井哲郎の手による挿絵が醸し出す絶妙な距離感がいいし、埴谷さん自身が自分が見た夢といったような言葉にするのが難しいものを、ねじ伏せるようにしつこく描写してこれでもかと言葉を連ねるのがまた面白いのだ。 夢という映像や絵を言葉で執拗に表していく。そんな文章に添えられた絵はそこに描かれた言葉に別の風景を投げかける。  (全部読んでないのでこの辺にしとこう。)

もうとっくにあけとりまんがな!

3月になっても紅白の話題が載り続けている、さすがにまずいと思いエア更新です。 今年もよろしくお願いします! 原発の事も、音楽の事も、シリアスな事も、面白かった事も、 分け隔てなく素直に書こうと思う所存です。