マジ:デザインとディレクション

他人が窓ガラスをワイパーで拭き掃除しているのを、ぼうっと眺めているとする。
ワイパーが通ったところはきれいに透き通り、まだこれからのところは曇っている。
だんだん曇っているところが少なくなってゆく。
そのうち、微妙に拭き取られていない中州のような曇り部分に目がいく。
いったん気がつくと、その中州が妙に気になり始める。いつ拭くか、ああ、近くを拭いた!と思ったらまた忘れてる、
という具合にちょっとそわそわしてくる。
拭き手の顔を見ると、自信満々に作業を続けているのでそのうち気がつくだろう、と腰を落ち着ける。
ところがどうしたことか、いつまでまってもそのわずかなエリアを拭こうとしない。
どうでもいいことなのに無性に気持ちが悪くなってつい声に出していってしまう。
「ここ、この部分、拭いてよ。」

私が拭いても誰が拭いても、結果的にガラスはきれいになる。
少し位中州が残っても、結果的に掃除は無事終わる。
誰の拭き方が正しくてまちがっているということはいえない。

微妙にデザインを直してほしいと言われたとき、いつもこのことが過る。
特にデザインが出来、デザイナーの仕事も兼ねているようなアートディレクターのもとで、自分がいちデザイナーとして仕事をする時、どうもうまく行かない。

そのデザイナーがデザインしても私がデザインしても結果的にはデザインは出来上がる。デザインに唯一の答え、というのはない。(といっても沢山答えが有り、誰でもピカソ、などと牧歌的なことを言っているのではない。)
どちらがより正しいととは言えないレベルでしかない時、(レイアウトの細かい調整や抽象的な雰囲気の話など)もうその人が実際に手を動かさない限り接点を見いだすことができないような、迷路に陥ることがある。
不承不承言う通りにするしかないのだが、私はマウスのカーソルか、と思うこともある。

大本のコンセプトメイキングや方向性の導きではなく、オブジェクトのミリ単位の位置にばかり終始することをディレクションだと思う人は意外と多い。

逆に自分はアートディレクターの肩書きで働いたことがあるが、つくづく出来ていなかったと思う。
どうでしょうか、とデザイナーからデザインを見せられると、すぐこれもありだな、と思って「ウン、グー。」と認めてしまう。
そのデザインに意見があればいろいろとコメントするが、基本的にはそのデザイナーの考えや決めたことも「有り」という姿勢だからだ。
私はこうするだろうけど、このデザイナーはこういう答えを出した、それもまたデザインなり、と。
その仕事の土台や方向さえ見失っていなければOKを出すべきだ、というのは一貫してあった。
ディレクターとしてではなく、ついうっかりデザイナーとして目の前のデザイナーに意見するのは失礼だと思うからだ。
そう逡巡した上でいろいろアドバイスにならないようなアドバイスをしていたが果たして成功していたのかどうか。おそらくダメだったと思う。

結局ディレクションして人にデザインしてもらうより、自分でやった方が簡単で満足できる。それが時に安易な自己満足であったとしても。
たぶんこんな風に楽な方に流れるから、いつまでたっても自分で手を動かし続ける、地味なデザイナーのままなのだと思う。

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